2007年10月14日日曜日

Because it is the right thing to do

 1966年だからちょうど40年前、筆者が南アフリカのプレトリアに住んでいた時、ロバート・ケネディが南アにやってきた。南アはアパルトヘイトの全盛時だった。そのアパルトヘイト政策に反対して拘束されていたケープタウン大学のイアン・ロバートソンの招聘に元米司法長官が応じたのだから、南アにとっては大変な事件だった。

 人種差別の政権を支持する多くの南ア国民にとってロバート・ケネディの来訪は迷惑そのものだったに違いない。だが、心ある市民にとっては自由と平等の伝道師に映ったに違いない。

 ロバート・ケネディの南ア来訪は、15歳の日本人の少年にとっても衝撃的出来事だった。人種差別をなくさなければならないという理想をあちこちで振りまいたのだから当然である。少年を感動させたのは単純な一言だった。「なぜ人種差別をなくさなければならないか。それは「そうすることがright thingだからだ」と述べたからだ。

「そうすることが正しいことだから」という一言はその後、ずっと筆者の思考や行動の規範となっていた。

 ケネディの南アでの言葉は、同国のリベラル紙「Rand Daily Mail」の冊子として残された。母は「Robert Kennedy in South Africa」と題したその冊子を英語学習の素材とした。筆者は母が読み終わったその冊子をもらって一字一字読みこなそうとした。母の書き入れがたくさんあった。

 当時の筆者の英語力ではかなわないものだったが、大学入試の時に読み直し、その後も何度か声を出して読み返している。部分によっては暗記してしまった。アメリカの良心がまさにここにあるという大切な冊子で、高校の日本史と世界史の教科書と同じように筆者にとってバイブルのような存在だった。

 アメリカという国はどういうことを考えているのか。今でもそういうことを考えるときに読み返す教科書となっている。数日前から、再びその冊子を読み返し、デジタル化して残しておこうと考えた。

 ケネディが1966年6月6日、ケープタウン大学で行った「Day of Affirmation」と題した演説を一字一字ワープロに打ち込んでいて、そのタイトルのDay of Affirmationの意味について考えた。何かキリスト教的な意味合いがあるのではないかと思って、ネットで検索したところ、偶然にもその演説のテキストを発見した。

 感動したのは、40年前に世界の片隅で語ったロバート・ケネディの演説が実は彼の残した数少ない演説の一つとして存在していたことであった。その上、彼の音声までネット上で聞くことができたことに心が震えた。
 
  We must recognize the full human equality of all our people ? before God, before the law, and in the councils of government. We must do this, not because it is economically advantageous ? although it is; not because the law of God and man command it ? although they do command it; not because people in other lands wish it do.
 We must do it for the simple and fundamental reason that it is the right thing to do.

 Day of affirmation前文は以下のサイトで。
 http://www.yorozubp.com/0605/060516.htm

英国兵が日本人捕虜を殴らない理由

 会田雄次氏の『アーロン収容所』では“アジア人家畜論”が続く。

「はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らなければならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるときに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである」

「私はそういうイギリス兵の態度にはげしい抵抗を感じたが、兵隊の中には極度に反発を感じるものと、まったく平気なものとの二つがあったようである。もっとも私自身はそのうちあまり気にならなくなった。だがおそろしいことに、そのときはビルマ人やインド人と同じように、イギリス人はなにか別種の、特別の支配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいたのである。そうなってから腹が立つのは、そういう気分になっている自分に気が付いたときだけだったように思われる」

 会田氏によれば、イギリス人は、ヨーロッパでの牧羊者が羊の大群をひきいていく特殊な感覚と技術をもっていると同じように、いつの間にかアジア人を家畜として手なずけているというのだ。日本人には決してできない特技を長い間の植民地支配で身に着けてしまったというわけである。

 だからイギリス兵は決してアジア人や日本人捕虜を殴ったりはしなかった。日本兵のように“凶暴”でないが、その代わり人間扱いしなかっただけのことなのである。

 高校生だった筆者は「なるほどこういう見方があったのか」と頭を殴られたようなショックを受けた。南アフリカの白人たちが黒人を「キャファー」と呼んでいた意味がようやく分かったような気がした。アラビア語で異教徒という意味のキャファーは「相いれない」という意味でもあるのだろう。

 当時の筆者にとって、問題は「そのように飼いならされた」アジア人たちであった。白人には決してかなわないとあきらめてきたその卑屈な根性である。「なんで支配を許したのか」「なぜ戦わないのか」。そんな苛立ちがあった。

 いま中国経済が隆々として脅威論すら出てくるようになっているが、たった15年前までは「貧困」こそがアジアの枕ことばだった。1960年代のアジアはアフリカ同様にもっと貧しく卑屈で、先進国経済のお荷物だった。だから「がんばらないとアジア人は永遠に白人たちに支配され続けられることになる」という危機感があった。

 国際情勢は冷戦構造の真っただ中で、アメリカを中心とする自由主義陣営がソ連や中国などの社会主義陣営と真っ向から対峙していた。だから多くの日本の知識人は心情的に社会主義に肩入れしていて、階級闘争によって貧富の格差や差別がなくなるのだと主張していた。

 当時の筆者にはなじめない議論ばかりが横行していた。世界には階級による対立より深刻な人種差別が厳として存在するのだと考えていたのに、誰も耳を貸すものはいなかった。『アーロン収容所』は筆者の心を癒やす数少ない書物であった。

アーロン収容所の英軍女性兵舎

 1967年5月、日本に帰ってきて読んだ本がある。会田雄次『アーロン収容所』(中公新書)である。京都大学教授がそのむかし学徒動員でビルマ戦線に投入され、戦後ラングーン(現ヤンゴン)のアーロン収容所に収容された時の経験を書いたものである。

 この本はまだ中公新書で87版を重ねている名著である。

 会田雄次氏はアーロン収容所での屈辱的な体験として「女兵舎の掃除」でイギリス人のアジア蔑視の実態を憤慨しながら書いている。当時の西洋人はアジアの人々を「人間」として扱っていなかった。南アフリカでの体験からさもありなんと考えた。

 人権だとか民主主義だとかは西洋での約束事でアジアやアフリカではまるで関係ない事柄なのだということを改めて知らされたのである。

 『アーロン収容所』を読んでいない人にために「女兵舎の掃除」のくだりを転載してみたい。

「英兵兵舎の掃除というのはいちばんイヤな作業である。もっとも烈しい屈辱感をあたえられるのは、こういう作業のときだからである。………その日は英軍の女兵舎の掃除であった。看護婦だとかPX関係の女兵士のいるカマボコ兵舎は、別に垣をめぐらせた一棟をしめている。ひどく程度の悪い女たちが揃っているので、ここの仕事は鬼門中の鬼門なのだが、割当だから何とも仕方がない」

「まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときは、たとえ便所であろうとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた」

「その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない、私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた」

「入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女たちはまったくその存在を無視していたのである」

「このような経験は私だけではなかった。すこし前のこと、六中隊のN兵長の経験である。本職は建具屋で、ちょっとした修繕ならなんでもやってのけるその腕前は便利この上ない存在だった。………。気の毒に、この律義な、こわれたものがあると気になってしょうがない。この職人談は、頼まれたものはもちろん、頼まれないでも勝手に直さないと気がすまないのである。相手によって適当にサボるという芸当は、かれの性分に合わないのだ」

「ところがある日、このN兵長がカンカンに怒って帰ってきた。洗濯していたら、女が自分のズロースをぬいで、これも洗えといってきたのだそうだ」

「ハダカできやがって、ポイとほって行きよるのや」
「ハダカって、まっぱだか。うまいことやりよったな」
「タオルか何かまいてよってがまる見えや。けど、そんなことはどうでもよい。犬にわたすみたいにムッとだまってほりこみやがって、しかもズロースや」
「そいで洗うたのか」
「洗ったるもんか。はしでつまんで水につけて、そのまま干しといたわ。阿呆があとでタバコくれよった」

 N兵長には下着を洗わせることなどどうでもよかった。問題はその態度だった。「彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに人間ではなかったのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような間隔を持つ必要なないのだ、そうとしか思えない」

 今から数えると60年前の話だが、筆者が初めて『アーロン収容所』を読んだのは40年近く前だから、戦後まだ20年近くしか経っていない。南アフリカでの人種差別の経験がまだ生々しかった時だから衝撃的だった。

ローデシアの一方的独立

 8月17日に書き始めた「アイ・アム・ノット・チャイニーズ」の続編がやめられない。いつまで続くか分かりませんが、また40年前の思いを書き続けることにしました。

 南アフリカに長くいると精神がおかしくなる。そう思い、筆者と姉はプレトリアでの生活を2年と決めて、1967年に帰国した。

 高校3年の姉と高校1年の筆者に父親は真っすぐ日本に帰ることを許さなかった。できる限りアフリカの地を見られるような日程を組んでくれた。18歳と16歳の姉弟が立ち寄ったのはソールスベリー、ザンビア、エンテベ、ナイロビ、アジスアベバ、カイロ、バグダッド、テヘラン、ニューデリー、香港、台北だった。今から考えれば、豪勢な旅だ。

 当時の航空会社は次の乗り換え便がその日の内にない場合、1泊の費用を負担するというシステムがあったおかげでほとんどホテル代がいらなかった。というより父はそういう便をわざわざ選んで日程を組んでくれていたのだった。

 まずは北隣りのローデシア(現ジンバブエ)の首都ソールスベリーに立ち寄った。プレトリア同様、ジャカランダの美しい町であるが、いまやそんな国が存在していたことさえ忘れ去られている。

 ヤン・スマッツ空港で体験した最後の人種差別は、ソールスベリー行きの飛行機でもあった。二人の搭乗は一番最後で、しかも座席は機体の最後尾の席が用意されていた。

 ローデシアはその昔、南部アフリカを開拓したイギリス人、セシル・ローズにちなんで名付けられた。ローデシアも南アと同様に温暖な土地で白人が多く入植していた。その白人たちは自らの利権を守るために決起、代表イアン・スミスは1965年11月、首相となって一方的に独立を宣言した。つまり第二のアパルトヘイト国が誕生したのだ。

 驚いたのは当時、南アには400万人の白人がいてその4倍の黒人を支配していたのだが、ローデシアではたった20万人の白人が20倍の黒人を支配することとなったことだった。当時のアフリカ統一機構(OAU)ははげしくローデシアの動きを非難したが、たった20万人の白人政権に世界はなすすべを知らなかった。

 この国は南ア以外に承認されることなく15年で消滅して、黒人国家ジンバブエが誕生するのだが、宗主国のイギリスは武力を行使してまで独立を阻止しなかったし、アメリカはベトナムで社会主義陣営と対峙していて南部アフリカで起きた出来事に関心は薄かった。一方的独立に対して世界各国は経済制裁をしたものの、南アを通じて物資はいくらでもローデシアに流れたから、スミス政権は強気だった。

 15歳の筆者は「イギリスはなんて腰抜けなのだ」と思った。困ったのは、西隣のザンビアだった。世界有数の銅鉱山を抱えていたが、輸出のための鉄道がローデシアを通っていたから国難となった。OAUの一員として人種差別国の誕生を認めるわけにはいかないが、鉄道という生命線をその人種差別国に握られることになった。

 戦後アジア・アフリカ諸国は相次いで植民地支配から脱却した。中国の周恩来、インドのネルー、インドネシアのスカルノ、ガーナのエンクルマ、エジプトのナセルはそうした国々の輝ける指導者たちだった。1955年、インドネシアのバンドンにアジア・アフリカ会議(AA会議)を開いた時は絶頂期を迎えていた。

 しかし60年代に入ると、彼らの指導力にも陰りが見え始めた。政治的独立は必ずしも経済的自立を意味しなかった。独立後に国民が求めたのは「食べる」ということだった。多くの国では貧困が政治不安をもたらした。アメリカとソ連による東西対立はそうしたアジア・アフリカの政治不安を増幅させた。

 やはり、アジア・アフリカは自立できないのか。40年前、そんな思いが思春期の筆者を悩ませた。(続)

南アフリカでインドに目覚めたガンジー

 マハトマ・ガンジーがインドに目覚めたのは南アフリカだった。約100年前、新進気鋭の弁護士として赴任した。赴任したとたんに体験したのが強烈な人種差別の洗礼だった。

 ナタール州の州都ダーバンからヨハネスブルグに向かうため、ガンジーは列車の切符を購入した。弁護士であるから当然のように一等席を予約した。まもなくやってきた列車の車掌にインド人が一等席に座っていることをなじられた。ただちに二等車に移るように言われ、抗議すると車掌はもよりの駅でガンジーを列車から突き落とした。

 この時の屈辱体験がガンジーをして後に反英闘争に走らせたきっかけとなる。それまでのガンジーは、イギリスによるインド支配に対して、慣れっこになっていたのかもしれない。南アでのガンジーはイギリスの弁護士資格を持ったれっきとしたイギリス国王の臣民であるはずだった。臣民であるガンジーが南ア人に差別されるいわれはなかった。そのイギリス国王の臣民が南アの列車から突き落とされて初めて自分のインド人としての立場を知るのである。

 山下幸雄著『アフリカのガンジー(若き日のガンジー)』(雄渾社、1968)にそのあたりの事情が詳しく書かれているのだが、どうしても理解できなかったのは、ガンジーの「同じイギリス王を戴く臣民である」という意識だった。

 筆者の南アでの体験からすれば、南アにはホワイトとノンホワイトしかいなかった。申し訳ないが、日本人よりも色の黒いガンジーが「あちら側の人間」でいられるはずがない。偉そうな話だが、当時の筆者はすでに「ガンジーの限界」を感じていた。

 ともあれ10年前までの南アフリカという国にはアパルトヘイト(人種隔離)が厳然としていた。戦後、植民地は次々と独立し、民族自決がようやく実現したように見えるが、欧米社会は引き続き、南アの人獣差別社会を容認し続けたのである。

 実は1960年代初頭のアメリカでも制度としての人種差別が存在していた。白人と黒人の学校は別々だったし、バスなどの公共交通機関もそれぞれ違う乗り物だった州が少なくなかった。「ドライビング・ミス・デイジー」という映画をみた方も少なくないと思う。主人公の老女デイジーと、初老のベテラン黒人運転手ホークとの友情を描いたものだが、映画の背景にはアメリカ南部で人種差別が日常化していた生活が描かれている。

 戦後の国際社会は民族自決だとか民主主義という理念をそこそこ共有しているが、戦前の国際社会はまさに弱肉強食である。日本が満州国を設立して国際連盟が日本を批判したがそれだけだったし、ナチス・ドイツがチェコのズデーデンを併合してもイギリスは兵を挙げなかった。

 それはそうだろう。イギリスはインドだけでなく東アフリカから南アまで、そしてマレー半島とボルネオ島の来た半分を領有していた。石油の宝庫である中東もまた完全にイギリスの支配下にあった。アメリカはフィリピンを支配下に置き、西インド諸島で覇権を握っていたのである。すべて武力による領有または支配だった。

 第二次大戦の最中、アメリカのルーズベルトとイギリスのチャーチル首相は戦後の民族自決をうたった大西洋憲章に署名したが、その席上、チャーチル首相は「それでもインドはイギリスのものである」と述べたようにイギリスは戦後もインドを放棄するつもりはなかった。

 そんな状況下でガンジーは無抵抗運動を繰り返していたが、第二次大戦が始まった時、インド国民会議派の多くのリーダーたちは「いまこそインドが立ち上がるべきである」と反英闘争の開始を促した。しかしガンジーは「イギリスが困っている時に反英闘争は起こせない」といって腰を上げなかった。ガンジーのそんな深層心理が不思議でならなかった。(続)

ヘイ・チャイナ・チャイナ

 南アフリカの町を歩くとよく「ヘイ、チャイナ、チャイナ」とおどけた様子で声を掛けられた。明らかに侮蔑した声だった。ゴミ収集車の黒人にも言われた。これには閉口した。「チャイナ」は世界中で通用するアジア人に対する蔑称だった。

白人たちは黒人たちを「キャファー」と呼んでいた。蔑称のひとつである。そのキャファーたちから「チャイナ」と呼ばれる気持ちはなんともやるせないものだった。自分の中にすでに白人優位の差別構造が存在していたのだろう。「白人にいわれるのならともかく、なんで黒人にまでいわれなければならないのか」。「いったい何様だと思っているのか」。そんな思いが心を締め付けた。

 海外で暮らして分かることは日本人がアジアの代表ではないということである。経済的存在感は確かに断トツなのだが、圧倒的な存在感はその人口が示す通り中国人なのだ。次いでやはりインド人ということになる。世界中どこにいってもチャイナ・タウンがあるし、インド洋周辺の東南アジアから東アフリカにかけてはインド人が商圏を握っていた。

 そのアジアがなんで「チャイナ」といって侮蔑されなければならないのか。侮蔑されるその土地でなんで住み続けなければならないのか。十代半ばだった筆者は悶々とした。

 古代において中国やインドは、黄河とインダスという世界四大文明を生んだ存在だったはずだ。しかし、つい最近まで中国もインドも国家としての存在感を示すことがなかった。中国人はアフリカの奴隷貿易が禁止された後、クーリーとして世界各地に浸透していった。インド人はイギリスによる世界支配の買弁として軍事力まで担う存在だった。

 少なくとも明治の日本はそうではなかった。貧しい中でも国論を統一して西洋から知識を学び取り、“富国強兵”に努めた。明治政府の最大の課題は江戸幕府が結んだ不平等条約の解消だった。鹿鳴館文化などというきてれつな現象が起きたのは、なんとか西洋に追いつきたいという悲壮な思いが明治の人々にあったからだと思っている。

 それに比べて、中国やインドが不幸だったのは白人に対するある種の敗北主義があったからではないかと考えた。白人社会がつくった上海租界の公園の立て札に「犬と中国人は入るべからず」と書かれても、西洋諸国に対抗すべき勢力は結集しなかった。インドの土侯たちはイギリス国王の庇護の下に入り、いままで通りの貧しいインドを放置したし、その貧しいインド人は進んで英印軍の傭兵となって同胞に鉄砲を向けていたのだ。

 南アの学校で相手を罵倒するときによく言っていたのが「Where is your conscience」というフレーズだった。「お前はばかか」「プライドってものがないのか」といったような意味だった。もちろん白人同士の話である。

「ヘイ、チャイナ」とわれわれをからかう黒人たちに言ってやりたかったのはまさに「Where is your conscience」という言葉だった。また差別され、侮蔑されてもじっと耐えるしかなかった中国人やインド人たちにも同じことを言いたかった。(続)

お前たちの来るところではない

 プレトリアの黒人お手伝いさんのユリさんはだんなさんがいた。ともにバスに乗り継いで1日以上かかる遠い村からの出稼ぎだった。メイドとしての労働許可証を持っているユリさんは白人の住宅内に住むことができたが、だんなさんは一緒に住むことは許されなかった。たまに週末などにたんなさんが訪ねて泊まっていくこともあったが、それは筆者の母が“許した”からだが、本来ならば南アの法律に反する行為だった。

 南アでは黒人の住む居住地をロケーションと呼んだ。南ア以外の社会ではタウンシップと呼んでいたが、南アの人たちはロケーションと言っていたのだ。ロケーションこそがアパルトヘイト=人種隔離政策の象徴的存在だったのだ。都市の周辺部にいくつか展開し、そこでは道路が舗装されていることはほとんどなく、電気があればいい方で、水道すらないところも少なくなかった。黒人たちはそこから労働者として朝晩、都市に通うことを余儀なくされていた。

 世界のどこの町でも労働者の住む貧しいゲットーのような町があるではないかといわれれば、確かにそうだが、南アではたとえお金があっても黒人というだけで住む場所が決められ隔離されていた。だから同じ貧しさでもタウンシップとゲットーはまったく別物である。

 また都市に通う黒人たちは身分証明書の携帯が義務付けられていた。警察に身分証明書の提示を求められ、不携帯で問答無用に逮捕される黒人の姿を見るのは日常茶飯事だった。たとえ使用人として働いている家の前でもそうだから気が抜けないのである。

 列車もバスも白人と黒人が一緒に乗ることはまずない。仮に同じバスで乗る場合も、車体が真ん中で区切られていて、白人は前から乗って、黒人は後から乗るのである。町の郵便局もトイレも別々。ホテルやレストランは白人の子守である場合を除いて黒人が入れてもらえることは絶対にない。

 一番ひどいのはインモラル・アクト(背徳法)という法律の存在だった。異人種間の結婚はおろか性行為も禁ずる法律で、キスをしただけで逮捕されるのである。多くの白人家庭では、母親は子どもを産むだけ。育てるのは黒人メイドである。黒人に育てられた子どもたちがやがて成長してアパルトヘイトを支持する大人となるのである。

 南アでは町に出るたびに不愉快な体験をしなければならなかった。実際にホテルやレストランで断られる場面に遭遇したことはない。しかし、レストランで受ける白人からの刺すような視線は毎回、覚悟しなければならなかった。彼らの目は教えていた。「お前たちの来るところではない」。

 ユリさんと町を歩くことはなかったが、黒人の運転手さんと遠出をした時に困ることが多々あった。まずレストランに一緒に入れない。われわれ家族は別々に食事をするのが嫌だったから、できる限りテイクアウトで食事をした。宿泊だけは仕方がなかった。白人用のホテルには必ず運転手用の宿泊施設があったからそこを利用してもらうしか方法がなかった。

 ふつうならこんな社会が長く続くと思わないだろう。しかし、南アだけは別だった。1960年代、南アの白人社会は世界で最も裕福な社会生活を送っていた。それを可能にしたのは人権を奪われた無尽蔵な黒人労働力だった。(続)

醜い南アの日本人社会

 南アフリカには1965年の春からちょうど2年間滞在した。家はプレトリアの高級住宅街にあった。前庭は芝生が生えていて子どものサッカーが十分にできるほどの広さがあった。1000坪はあったと思う。

 道路から出入り口が二つあって二階建ての家の後ろに乗用車が6、7台はゆうにとめられる駐車場があった。そのさらに向こうに果樹が何本か植えられている大きな裏庭があった。それまで日本では2Kの狭い公務員住宅に住んでいたから、そこは邸宅と呼んでいい住居だった。

 家にはユリさんという40歳前の背の高いやせた女性のお手伝いさんが住み込みで働いていた。彼女のすみかは母屋から2、30メートル離れたところにあっ た。サーバント・クォーターといってどの家にも使用人の離れがあった。電気は裸電灯があるだけまし。便器は水洗だが、座るふたがなかったし、シャワーにお 湯はなかった。“使用人”とはいえ母屋とはあまりにも違う住環境だった。

 日本にもかつては女中や下男を置く家もあったが、少なくとも住むところは同じ屋根の下だった。だからサーバント・クォーターはまさに異なる人の住むところという印象があった。

 ユリさんの賃金は食事付きでたぶん月5000円程度だったように思う。まずは白人の数十分の1以下である。主食はミリミールというトウモロコシの粉を炊 いたもので、見かけはマッシュポテトのようなものだった。副食には必ず肉があったから栄養的にいえばそう貧しくはなかったが、生活レベルは雲泥の差であ る。

 筆者が住んでいたプレトリアは南アの首都で、日本人は総領事館の5家族しかいなかった。子どもは筆者の兄弟3人とあと1人の小学生だけだったが、70キロほど離れた商都のヨハネスブルグには日本人が500人ほどいて日本人学校もあった。

 狭い日本人社会ではよく行き来があった。日本人同士のパーティーもしょっちゅうあった。そうした集まりで必ずといっていいほど話題になるのが黒人メイド のことだった。「不潔」「低能」などといって罵倒するのはいいほうだった。一番いやしいと思ったのは奥さま方が黒人メイドの「盗み」にどう対応しているか 喜々として話している場面だった。

 ほとんどの家庭が日本では考えられないほどの王侯貴族の生活を満喫しているのに、メイドたちが「砂糖を盗む」「しょうゆがいつの間にか減っている」と いったけちけちした話にうつつを抜かしていた。美しく着飾った日本の奥さまたちが砂糖を盗んだといってメイドを面罵する場面を想像するだけで恥ずかしかっ た。町に出れば自分たちも差別される身でありながら、南アのアパルトヘイト政策を批判する場面に遭遇することはまずなかった。

 そりゃそうかもしれない。当時の日本では想像も出来ないプールとテニスコート付きに邸宅に住み、何人もの使用人にかしずかれる。アパルトヘイトさえな かったらおよそ天国といっていい。多くの日本人はその生活レベルに舞い上がっていたに違いない。しかし筆者にはそのアパルトヘイトが許せず、現実を直視せ ずにアパルトヘイト政策を支持するような日本人こそが醜い存在だった。

 同じような日本人社会は南アが特別ではなかったはずだ。タイでもインドネシアでもあったはずだ。戦争に敗れて20年しかたっていない日本人はようやく豊 かさの入口に立っていたが、まだ貧しかった同じ有色人種の仲間たちを白人以上にぞんざいに扱っていたのだ。(続)

アイ・アム・ノット・チャイニーズ

 大学時代だ からいまから30年も前の話である。学友と政治を語ることが多かった。多くの学生は社会主義にかぶれていた。世の中の対立は資本と労働にあり、世の中の矛 盾はすべてこの対立構造によって語られる風情があった。だから学生の中では、資本主義社会はいずれ社会主義に取って代わるという意識が多分にあった。

 筆者は少々違う体験をしていたから社会主義にはどうしてもなじめなかった。中学・高校の時に人種差別(アパルトヘイト)の南アフリカに育ったからだ。世 の中の対立がすべて資本と労働の論理で解き明かされるなら、それほど簡単なことはないと考えていた。世界にはもっと根深い差別があるのだと思っていた。

 筆者が考えていたのは人種間の問題の方が階級対立よりより深いと思っていたのだが、当時、筆者の心情を理解してくれる人はほとんどいなかった。

 南アで困惑したのは、差別されている日本人が同じ差別されている黒人をバカにする場面にたびたび遭遇したからだった。もちろん日本人は「名誉白人」の待 遇を得ていたから、白人居住区に住むこともでき、ホテルやレストランだけでなくバスも郵便局も白人並みの扱いを受けていた。

 外交官や商社マンたちは美しい芝生を敷き詰めた広大な敷地の邸宅に住み、何人もの黒人の使用人を雇っていた。プールやテニスコートは当たり前である。気 候は温暖で物価は安い。人種差別に鈍感でいられたら王侯貴族のような生活だった。

 でも学校だけは別だった。名誉白人でも公立の学校への通学は体よく断られた。当時の南アの法律ではホワイトとノンホワイトの区別しかなく、名誉白人など というものは単なる「お目こぼし」にしかすぎないことはすぐに分かることとなった。

 南アでは、同じ顔をしたアジアの人種でも中国人はまた別扱いだった。ほとんどの日本人が南アで短期の滞在の外国人であったのに対して、多くの中国人はそ こで生業を営む南ア人だったから、彼らは白人地区に住むことは許されていなかった。中国人たちは黒人とは違う地区だが、「隔離」された居住区にしか住むこ とを許されていなかった。

 そんな白人たちの勝手な世界にどっぷり浸かって、それでも黒人ばかにする日本人というものが信じられなかった。

 1960年代、南アに支局を置く日本のマスコミはなかった。ときどきロンドンから記者が取材にやってきた。南アに数日滞在して日本人から南ア事情を聞き かじった記事が日本の新聞に掲載されることがあった。多くの記事はやはり階級史観で南アの人種差別を分析していた。

冗談じゃないと思った。南アの人種差別はそんな単純な構造で成り立っているわけではなかった。表面的には確かに白人が資本家で、圧倒的多数の黒人が搾取さ れる側にいた。それは間違いないことなのだが、資本家側には一人の黒人もいないのだ。弱い黒人が強い白人に支配されている。高校生だった筆者には、ただそ う考える方が自然だった。

 20世紀前半までは、西欧にも白人同士でも資本家による過酷な収奪構造があった。だから当時の南アにも「プアホワイト」という貧しい白人も多くいた。だ がその貧しい白人と収奪される黒人が「共闘」を組むという図式は考えられなかった。そのプアホワイトこそが南アの人種差別政策の圧倒的支持層だったのであ る。

 ある日、ロンドンから朝日新聞社の記者がやってきた。わが家にも一晩来て父親と話し込んでいた。高校生の筆者もその話をそばで聞いていた。難しい話をし ていたのではないが、こんな日本人もいるのだと感動したことを覚えている。

「レストランに入ろうとしたら断られたんですよ。アイ・アム・ノット・チャイニーズと言えば入れてもらえたのでしょうが、そのひと言が言えなくて」

 その一言に筆者は恥じ入った。毎日のように差別されるたびに躊躇なくその一言を発していたのだから衝撃は大きかった。筆者のアジアへのこだわりはその日に始まったのかもしれない。(続)