プレトリアの黒人お手伝いさんのユリさんはだんなさんがいた。ともにバスに乗り継いで1日以上かかる遠い村からの出稼ぎだった。メイドとしての労働許可証を持っているユリさんは白人の住宅内に住むことができたが、だんなさんは一緒に住むことは許されなかった。たまに週末などにたんなさんが訪ねて泊まっていくこともあったが、それは筆者の母が“許した”からだが、本来ならば南アの法律に反する行為だった。
南アでは黒人の住む居住地をロケーションと呼んだ。南ア以外の社会ではタウンシップと呼んでいたが、南アの人たちはロケーションと言っていたのだ。ロケーションこそがアパルトヘイト=人種隔離政策の象徴的存在だったのだ。都市の周辺部にいくつか展開し、そこでは道路が舗装されていることはほとんどなく、電気があればいい方で、水道すらないところも少なくなかった。黒人たちはそこから労働者として朝晩、都市に通うことを余儀なくされていた。
世界のどこの町でも労働者の住む貧しいゲットーのような町があるではないかといわれれば、確かにそうだが、南アではたとえお金があっても黒人というだけで住む場所が決められ隔離されていた。だから同じ貧しさでもタウンシップとゲットーはまったく別物である。
また都市に通う黒人たちは身分証明書の携帯が義務付けられていた。警察に身分証明書の提示を求められ、不携帯で問答無用に逮捕される黒人の姿を見るのは日常茶飯事だった。たとえ使用人として働いている家の前でもそうだから気が抜けないのである。
列車もバスも白人と黒人が一緒に乗ることはまずない。仮に同じバスで乗る場合も、車体が真ん中で区切られていて、白人は前から乗って、黒人は後から乗るのである。町の郵便局もトイレも別々。ホテルやレストランは白人の子守である場合を除いて黒人が入れてもらえることは絶対にない。
一番ひどいのはインモラル・アクト(背徳法)という法律の存在だった。異人種間の結婚はおろか性行為も禁ずる法律で、キスをしただけで逮捕されるのである。多くの白人家庭では、母親は子どもを産むだけ。育てるのは黒人メイドである。黒人に育てられた子どもたちがやがて成長してアパルトヘイトを支持する大人となるのである。
南アでは町に出るたびに不愉快な体験をしなければならなかった。実際にホテルやレストランで断られる場面に遭遇したことはない。しかし、レストランで受ける白人からの刺すような視線は毎回、覚悟しなければならなかった。彼らの目は教えていた。「お前たちの来るところではない」。
ユリさんと町を歩くことはなかったが、黒人の運転手さんと遠出をした時に困ることが多々あった。まずレストランに一緒に入れない。われわれ家族は別々に食事をするのが嫌だったから、できる限りテイクアウトで食事をした。宿泊だけは仕方がなかった。白人用のホテルには必ず運転手用の宿泊施設があったからそこを利用してもらうしか方法がなかった。
ふつうならこんな社会が長く続くと思わないだろう。しかし、南アだけは別だった。1960年代、南アの白人社会は世界で最も裕福な社会生活を送っていた。それを可能にしたのは人権を奪われた無尽蔵な黒人労働力だった。(続)
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