2017年12月13日水曜日

チャンドラ・ボースとの出会い

 南アフリカを去り、姉と僕は東京で下宿暮らしを始めた。両親と弟は南アからパキスタンのイスラマバードに移っていた。高校一年の夏、家族呼び寄せの制度で、僕らはイスラマバードに招かれた。父から渡されたのは藤原岩一著『F機関』という一冊の本だった。「ハリマオって本当にいたんだぜ」と父は言った。少年時代、僕のヒーローがハリマオであったことを父はよく知っていた。  読み進みうちに、第二次大戦は始まったころ日本軍は東南アジアでインド人と連携し、英印軍の中のインド兵を投降させる謀略戦を展開したことを知った。そして、その謀略機関をF機関と呼び習わした。機関長は藤原岩一氏で、参謀本部から東南アジアに転出していた。シンガポールが陥落した時、英印軍には5万人ものインド兵がいることが分かった。日本軍は捕虜となった彼等からインド国民軍を編成し、インド独立の先兵とする約束をした。インド兵との約束の中でベルリンにいるチャンドラ・ボースをアジアに呼ぶことも含まれていた。ボースはガンジー、ネルーとともにインド独立運動の大御所だったが、戦争に際して反英闘争を開始したため、カルカッタで拘束されたが、自宅軟禁に移った後、インドを抜け出してベルリンに到っていたのだ。  2年後、チャンドラ・ボースはアジアに姿を現し、ボースはインド国民軍を率いて自由インド仮政府をシンガポールにつくった。インド国民軍は独立した国家の軍隊として生まれ変わったが、所詮は日本軍の管理下にあった。ボースの夢はビルマからインドに進軍してインドを軍事的に解放することだった。国民軍がインドの土地を踏むことができれば、インド中が蜂起し、イギリスのインド支配が終わるものだと考えていた。この作戦は戦争の中盤以降、劣勢を挽回しようと練ったインパール作戦と目的が重なっていた。  無謀とのいえたインパール作戦の背景に、僕たちの知らない歴史を発見した思いだった。チャンドラ・ボースの出現は、南アで反白人思想に凝り固まっていた僕の心を捕らえた。ボース研究は大学に入っても続き、ついに「インド独立とチャンドラ・ボース」を卒論として書き上げるまでになった。

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